昭和53年08月20日 朝の御理解
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
とかくに地を肥やせと。信心で言う、地を肥やすと言う事は、もちろん心を肥やせと言う事なんです。心がゆたかに心が肥えておらなければなりません。どんなに豊かな心になれたと思うておっても、何かがそこに起こってくると、もう心が淋しゅうなったり、いらいらしてきたりというのは、まだ肥えてない証拠。平穏無事だから有り難いと思うておるだけのこと。
昨日、日田の綾部さんが、ある方のお導きをして、お参りして見えられてから、お話をしておられましたが。先日から、まあとにかく休んでおったけれども、ちょっと起き上がって御礼を申し上げねばおられないように、心が有難うなって、もう有難うしてちょっと御神前に出てお礼を申し上げなければおられないような心の状態になって、本当に有難い。本当に信心ちゃ何と有難いことだろうかと思わせて頂いておるときに、家庭の中であるちょっとした事が起きた。
ところが、今まで有難いと思うておって、それこそわざわざ御神前に出て、お礼を申し上げたのにも関わらず、その事が心がこう暗くなったり、まちょっといらいらしたりしたと言う事なんです。はあ本当に有難い有難いと言うとるけれども、自分の有難いというのは、本当のものじゃないなと思うて、またご自分の部屋に下がられたところが、今ここの一番下の孫の一恵の浴衣を縫わせて頂いておる。
それから泰子も縫わせて頂こうと思うて、準備をしておられて、ちょうど出来上がって、縫い上げを上げたのを、ここんところに掛けてあった。不思議なこっです先生この、真心でさせて頂いたと。それがまたとってもその、自分でもまあ何ち言う可愛いその、子供の浴衣ですよね。湯上りを縫うて、だろうかと思うて、それを見せて頂いておりましたら、心が治まって、はあ本当にもう何がそう自分を心を落ち着けたり、心がまた有難いに帰ったか分からんけれども。
その可愛らしい着物を掛けて、そこに掛けてあるのを見てから、心が静まったというお届けをしておられました。これなどは私は本当に自分の心を豊かにする。おかげを頂いて教えを頂く心が確かに豊かになる。けれどもそこに何かが起こってくる。また乱れるまたいらいらしておる。または腹が立っておる。はあこりゃまだ自分のものが、本当なものじゃないなと、そのいよいよまた改まりに改まり。
本当のものじゃない、本当のものを目指しての、その生き方の中に、いかに愛の心というか、真心というそういうものが、私共の周辺に一杯なからなければならないかと言う事を私感じたんです。可愛らしいいわばお供えをさせて頂こうと思うておる、爺ちゃんのその着物を眺めて、心がそれでまた、有難うなったとこう言う。人間の心というものは、もう本当にどうにも始末に困る内容を持っておりますけれども、そういう心の状態を何時も心一つですべてを創るといわれるくらいですから。
その心に何時も取り組んで。乱れたら正し汚れたら清めるという生き方を、何時も続けていくわけですけれども、そこには何時も信心のまことというか、真心、愛の心というものが。なからなければならないかと言う事を思います。昨日研修の時に昨日のご理解の難しさについて、まあ色々話し合ったことでしたけれども、一心を立てれば和賀心に神がござるから、おかげになるのじゃと。此の方が祈るところ、天地金の神と一心なりと言われる、その天地金乃神と一心なりと言われるその一心と私共が。
わが心にござる神。いわゆる一心を立てて拝む、これはほんなら金光様ではなくてもよい訳ですけれども、一心を立ててそこには自分の心の神なる、まあ働きが自分の心に感じられる一心を立てればおかげになる。その一心と一心が出会い、そこから生み出されてくるものと言う事が、非常に難しい事であった。まあ色々私がその事について、もう惟は天地の親神様が人間氏子にこうあってくれよ、こうあらなければ人間は幸せにはなれないよと。神も助かり氏子も立ち行くと言う様な世界は開けてこないよと。
それを何とか合楽では、この様に素晴らしい合楽理念というものが、段々本当なものになって行きよる。いよいよ完璧を目指して合楽理念が、唱えられるようになり、叫ばれるようになってきた。だからこの理念を持っていけば人の助かる理念。これは日本人だけではない、世界中の氏子が。天が下に他人と言わなき事と仰る。いうならうからやからというか。同胞の人間氏子達が助かっていく、その理念が合楽理念だと。
随分色々と一心を立てて、その天地の一心と、いうなら一つになって生み出されたというなら、甘木もやっぱそうであった。甘木の安武先生の、わが心からなるところの一心、そこから天地金乃神とまた交流された一心。そして何が生まれたかというと、今の甘木の信心が生まれた。一切が神様の御物だと。言うなら天地の大恩を、誰よりも深く厚く知られて、いわゆる御物としての手厚い取り扱い、手厚いご信心が出来られて、甘木の信心が生まれた。これは久留米においても同じこと。
石橋松次郎という先生の一心が、天地に通うた。その天地に通うて、一緒に通うた時に生まれたのが、久留米の信心であった。信心辛抱が、久留米の教会の芯と言われる、そういう信心が生まれて、そこから沢山の出社も出来るし人も助かった。私の一心と天地の親神様とのいわゆる、金光大神の一心、天地金乃神様の一心、これはまあ同じだと思いますね。此の方が祈るところ、天地金乃神と一心と仰るのだから。
金光大神の一心、天地金の神様の一心と、私の一心とが(パンと手を叩いて)っとこう、出会わせて頂いて生まれたのが合楽理念なんです。だからね、ほんなら私と家内の間に生まれて、長男勝彦が生まれ、二番目の光昭が生まれ。三男幹三郎が生まれ、四男栄四郎が生まれた。私と家内との間から生まれておるのであるけれども、それぞれに、士農工商というように、その神様が表現して下さるように、違うのでしょうが。
そういう中にです、合楽理念が生まれたと言う事は、もういよいよ世界の総氏子が助かられる助かりの理念だと、というほどしの大変なものが生まれたと言う事。こら阿倍野だって、今の泉尾だって同じです。泉尾の信心が生まれた、阿倍野の信心が生まれたと。やっぱり、一心と一心の出会いから生まれたのが、もう只々有難うて有難うてと。まあ言うならば一切を一切を有難いで受けていこうと信念され、その事を五十年間続けてこられた阿倍野のいき方。
もういやが上にも心は豊かになっておいでられて、そこから一人でにものがどんどん出来るように、今日の阿倍野教会のゴヒレイがある。ま今日の御理解には一番ぴったりしたような感じですね。心が肥えていくと言う事は、もう一切合切を黙って肥料にして行くと言う事なんです。困ったもんだ難儀なもんだじゃなくてです。それこそ。昨日は熊谷さん所の、急に思い立たれてから御霊様、今東京から嫁がきとりますからね。
孫達を連れて、あただに御供え物を用意してから、四時の御祈念にでもあわせてと言うて、あの霊祭を私奉仕させていただいた。御神願に私が頂きますのが、あの魚の身の美味しそうな魚の身の、真ん中だけを食べておる。食べてしまってある所を頂いた。そして、御理解に人間の幸せとは、こう言う様な事だと思うておった。所が合楽理念に基づくと。例えば食べられない頭を出されても、尻尾を出されても、阿倍野の先生じゃないけれども、はあ、神様が、こんなにして、私を鍛えて下さる。
頭の時にはそれこそ人の頭になれよと言うて神様が下さる。尻尾の時には人の世の王にもなれよと尾をつけて下さると、もうお礼を申し上げる一切をお礼を申し上げれる、そういう信心が、合楽理念に分かったという意味の事を頂くのです、御霊様達が。改式と言う事は素晴らしい事ですね。先日の私は久保山の霊祭の時も、それを感じたんですけれどもこうやってもう、本当に魂の世界にだけにあって、生前もう亡くなってからもです。ただ人間に自分に都合の良い事だけが、おかげのように思うておったこと。
だからその、都合の良い事ばっかり起きてくれば、魚の身のとこだけ食べられるようなおかげを頂けば、おかげだけれども、尻尾を出されたり、尾を出されたりするときには、おかげではないと。言うならそれによって腹が立ったり、それによって心が淋しゅう鳴ったりする様な事では、本当の助かりと言う事にはならんのだけれども、御霊様が、合楽理念によって、そこのところをいわば御霊ながらの体験、御霊ながらの精進をさして頂いておるという事を頂いたんです。
今日の御理解を言うと、これは御霊様によらず、合楽にご縁を頂いておる皆さんの場合は、どうでも合楽理念を持ってすると、どこでどういうものが出ようが、それを有り難く頂こうとする精進がいる。そういう心がいやが上にも、心が豊かになって行くことでしょう。一人でにものが出来るような、いうなら地を肥やせと言う事は、そう言う事だと思うんです。だから一人でに物がどんどん出来て行くと言う様なおかげだけ、又はほんなら阿倍野じゃない、その泉尾のようにです。
もうそれこそ願って願って、願い抜かせて頂いて、おかげが頂けれると言う様な、一つのタイプが生まれた。有難い有難いと受けていくというその事によってほんなら、阿倍野のゴヒレイが生まれた。どちらもやはり一心と一心が出合って、生まれたのは器量も違うし、性格も違うのが生まれた。けども合楽の場合は何が生まれたかというと、いわゆる合楽理念が生まれた。しかもほんなら合楽理念というのは、もう人が助かることのための理念である。これは日本人だけではない。世界中の氏子が。
昨日の研修のときにね、そういうその私どもは、そこんところに焦点を置いて昨日、研修させていただいたんです。そしてとにかく今日の御理解は難しいけれども、もう神様のもどかしさどうかして、その合楽理念をもっともっと、すんなりと合楽理念を、もっともっと誰でも感じられ、誰でも分かるような表現の仕方はないものだろうか。私が表現が本当のことが出来ません。だからもっともっと誰でも、なるほど合楽の大坪さんが言う通りだと。信心のある者でも無い者でも。
手続きの違った教会の先生方でも、こりゃ大坪さんが言うとが、ほんなことだと分からせられる内容を持ってるんだし、またそれにはおかげと助かりというものを内容に持ってるんだから、これを何とかみんなに普及するために、何とか説明のしようはなかろうかと言う事をみんなで昨日は研修しました。とても昨日の御理解頂きよって、何か神様のね、こんな素晴らしいことなんだけれども、これを一人ひとりにつかまえでは、教えよう分からせようと言う事の難しさ。いうなら教導の難しさ。
何とかこういう事実、こういう内容を持っておる難い合楽理念を、何とか誰にでも分かるような表現の仕方は無いだろうか。誰でも例えばほんなら一つ食べてみろうかとね。つままにゃおられんような、食欲が起こるような表現はないものだろうか、と言う事でございました。そしてね結局皆さん、いわゆる先生方ばかりですから、結局あなた方が何を求め、何を願い何を身に付けていかなければならないかというと、もちろん合楽理念だけれども、その根本になるものはねという話をしました。
自由気まま勝手なことで、どんなに合楽理念を理屈の上でマスターしても、それはおかげにならない。一つ本気で思い切っていうならば、不自由な社会というかいうならば、取次ぎ者としては、このもう畳半畳というような窮屈な中にあるわけ。そういう中にです私共がほんなら、世界は和賀心にあるのじゃろかと思われるほどしに広い心の状態。もう、自分の心というものは、もうそれこそ世界各国を駆け巡っておるような感じ。アフリカのことをこの頃は考える。カナダの事を考える。
南米全土の事を考える。人が助かることのために、いうならばそういう何かきっかけが出来て、そういう例えばまヒントというかね、アフリカからも手紙が来た、カナダからも手紙が来た、南米はもう一粒の種が蒔かれた。そう言う事をです、ここに座っておって、自分の心というものは、世界の国々隅々までも、いうならば心は動いておるんだと。世界が和賀心にあると教えられたのは、こういう心じゃなかろうかというように、なら私の心というものはおかげを頂いておる。
そして自分でああもしようああも食べよう、こうもしようと言う様なものを、さらさら捨てて、これは毎日私と家内と久富先生と、お食事の時に言う事ですけれども、これをもう私が言うんです。「久富先生これが山海の珍味というのだろうの」と「百味の御食(おんじき)とはこの事じゃろの」と、「どげん考えたっちゃ勿体なかばい」と言いながら頂くんです。私があれを食べたいこれを食べたいと言わんでも、もう食べたい以上のものがこの食膳に沢山並んでくる出てくる。
それはどう言う事かというと、私がね何を食べよう、かにをそんなことは、全然思わなかった。もうそれこそあの私が一生です。もう親兄弟、親子供たちにですね、お粥さんでも良い、腹一杯食べさせるようなおかげが頂けたら、それで私はお粥一食でもう一生過ごしたっちゃかんまんと言う、かんまんと言うか食べても良いという心の状態がです。もう楽はせんぞお御馳走どん食べようとは思わんぞという、その心がいやが上にもいうならば、ご馳走が集まってくる働きになるように。
ここで何時も言われる楽はせんぞという心になって、させて頂く楽を身に付けていくと言う事。これが私は合楽理念の根本になるとばい。合楽で修行しながら自分のよか時に、外へとっとと出て行ったり、遊びに行ったりもの食べげ行ったり、もう合楽の修行をしておる先生方だけは、これだけはいっちょ謹みなさいと。私共が修行の初めの頃に、箇条書きにですね、ああはしませんこうはしません。もう沢山の箇条書きにですね。歌は歌いません本は勿論神様がそれは、ヒントを下さったんですけれどもね。
読み物と言うたらもう、あの御道のご本でも読むことは許されませんでした。成程後から考えると、あの本当におかげの頂けれる、助かりに繋がるご本が無いからです。だから知識が豊富になって、却っておかげ頂けんようになるからです。私はだから当時もうあの本というものは、壁に貼られた新聞でも読みよると神様が、ああこう読んじゃいかん読んじゃいかんと言うて、あの下さりよった。だからもう窮屈この上もないごたるけれども、そういう中にです。あの今日の合楽があるんです。
ほんならもうとにかく布一寸買いません、米一粒買いませんていう、なんかいよいよ自分というものを窮屈なところに。下駄一足買いません。まあ沢山なことでしたけれども、だから、皆さんいっちょあの勿論合楽の人達が、外出をしちゃならんと言うのじゃない。けども外出するときには、外出許可ぐらい取って出るぐらいにしなきゃいけないよと。無断で出る様な事は決してしない。だからこれはもう自分なりのものだから、自分で自分というものを、もっと窮屈なところへ。
朝、昼、晩の御祈念には必ず出ます。どうそれにはこうもしますああもします。大祓い心行は欠かす様な事はしません。まあ何か自分というものを窮屈なところに、他に修行はないのだから合楽の場合は。だからそういう修行をいっちょ思い立って、箇条書きにね、書いて来なさいちみんな。そして私がそれをお取次ぎさせて頂くから、それを一つあの合楽理念の根本になるものだから、ここんところを一つもう出来るだけ自分を、不自由な窮屈なところに追い込んでいく。
そしてその中から、時運であり、無碍な世界を開かせて頂くおかげを頂きなさいよというて、まあ最後に申しました。そしたら私夕べここへ着かせて頂きましたら、それこそ恐る恐るあの、梅山君が出てくるんです。で「親先生どうぞよろしゅうお願いします」と言うて、あの便箋一枚にびっしりこうは致しません、ああは致しませんと言う事を書いて持ってきた。もう私はもう、声上げて泣きたいごと嬉しかったです。あの先生が喜ばれるようなと、皆さんがよく言いますけれどもね。
もうこげん取次ぎ者として、また私は親先生という、その親としてこげん嬉しいことはないです。「いやあ僕が一番じゃったね」と。そら成程彼の行状というものはもう、誰が見ても、これが合楽の修行生だろうかと言う様な所があるけれども、私はそれを一遍でも責めたことも無からなければ、言うたことも無いです。もう神様のお育てを頂かなきゃ出けることじゃないですから。ところがその彼がです。
私が心にかかっておった、例えば外へ出てから飲み食いなんかは決して致しませんと言った様な事を、ずうっと書いてるんです。そしてもしこの中のひとつでも、私が破るようなことがあったら、親先生いつでも私を破門にして下さいと書いとるです。私は嬉しかったですね。もうこげん有難いこつは無いです。取次ぎ者冥利はもうここに尽きるというぐらいに嬉しいです。そういうです私はそういう、いうならば私を不自由のところに。ああもしたいと思うてもそれをしない。
そういう心がいやが上にも言うなら、心を豊かにして行く。いや常日頃。常平生の中に肥やしておけと仰るのは、そう言う事じゃなかろうかと思うです。いつでも出来るんです。常平生何時も自分の心に、いうならば肥料を与えているようなもんです。だからこれが成就した暁にはです、今私がおかげを受けておるように、例えば食べ物なら食べ物でも。あれを食べたい飲みたいは思わないけれども、手をさいだせば、冷たいそこには飲み物が、もう枕元に冷蔵庫が今置いてありますからある。
もう本当に今夜はまあどういうお御馳走が出てくるだろうかと、まあ言いも思いもしませんけれどもそれこそもう、本当にまあどれもこれもは頂ききらんから、少しづつ頂こう。しかももう最高のこれが食べもんじゃろのと言うて、まあ久富先生と言うて、まあ頂く事でございますけれどもです。いうならば自由無碍の世界がそこにあるわけです。だからこれはいつも言われることですけれども、楽はせんぞと言う事は、私をいよいよ窮屈にするして行く修行なんです。
その修行がそのままわが心を肥やすこと。常平生に肥やすことになるんです。ただ何か、お願い事のあるときだけ、いろんな修行するとこういうのじゃなくてですね。常平生からの肥しをしておかなければ、ひとりでに物が出来るようなおかげにはなって来ない。それを例えば一心と一心との出会いが、阿倍野が生まれ泉尾が生まれ、甘木が生まれそして久留米が生まれた。どれでも器量が違う内容が違う。
一心と一心とが出会うて合楽理念が生まれた。だから合楽にご縁のある人達はもう、どうしてもこの合楽理念を、自分のものに血肉にしていかなきゃならない。そして人が助かる。いうならば理念だなと言う事の確証を、銘々がしていかなければいけない。それがしかも合楽理念の場合は。子にも孫にも伝わっていくもの。世界万国どこへ持っていっても通用するもの。そういうものが、合楽に合楽理念と、まあ呼んでおるわけですけれども、そういう素晴らしいものが生まれた。
だからそれをマスターすると言うても、自分が実意丁寧神信心を欠いで、いうなら日頃、わがまま気ままをしとって、合楽理念とはこうだああだと論じたところで、それは本当のおかげにはならない。その基盤になるもの。それはいうなら無限のおかげの頂けれることのために。私共がいよいよ自分と言うものを、窮屈なところにわが身を置いて。そこから不自由で不自由のない世界というものが開けてくるおかげを頂きたい。
常平生からの信心が肝要じゃと。地を肥やすと言う事は、常平生からの信心が大事だと。常平生からの信心常平生からの愛の心、真の心を何時も遣う心。そして自分をいよいよ窮屈なところに窮屈なところというと、そこに修行の焦点を置いて。自分から贅沢をしようなどとはゆめゆめ思わない。さして下さるのならどういう贅沢でも合掌して受けていこうと。そういう生き方を身に付けていく。
もし綾部さんに愛の心が無かったら、真心が無かったらその晩な一晩中、いらいらもやもやで過ごされたかも知れません。それこそ今まで有り難くて眠れんごたったのが、もうそれこそいらいら、もやもやで眠れんごとなったかも知れない。けれどもそこには自分の愛の心がそこにかかっておった。自分の真の心が、その小さい子供の着物の上に、縫い上げた子供の着物の上に現れておる。それに触れた途端に心が和んだ。
有難うなって来た。心が豊かに大きくなってきた。私共人間はねまだまだ、はあまあだ有難い有難いと言いよるばってん、自分の有難いはこん位の事じゃと言う様な事に直面するんですお互い。けれどもそこにです。例えば神の思いというか真心というか。がそこにある。それに触れた途端に自分の心が清められる。自分の心が豊かになれる。その様にして信心は進めていくものだと。同時に合楽にご縁を頂いておる人達は。
合楽理念を基にして合楽理念をもってしなければおかげは受けられんという、その根本になるものはです。信心させて頂いて、こう言う様な事をしちゃならん。こう言う事を思うちゃならん、行うちゃならんと言った様な事をです。要するにギリギリ自分の信心内容に頂いて。神様にああはしません、こんな事は決して致しませんと言う様なですね。ものが出来て次の不自由であって、不自由をせんで済む世界に住みたいと思うですね。
どうぞ。